願 望
華奢な肢体は、抗うことなくすんなりと斎藤の腕の中に落ちてきた。
そっと抱きしめると、その細い両腕も斎藤の背に回り抱きしめ返してくる。
『…一さん』
しっとりと濡れた唇がゆっくり確かに斎藤の名を紡いだ。
柔らかいよく知った声色のような気がした。しかし、斎藤のことを名で呼ぶような者はいない。
斎藤は、自然な仕種でそれに自分の唇を寄せた。なんの躊躇いもなかった。
その唇を吸い、その相手の顔をよく見ようと顔を覗き込んで絶句する。
斎藤の顔を見て、その漆黒の瞳が嬉しげに、そして艶やかに微笑した。
「…っ、そう、」
斎藤は目を開けて、じっと辺りの様子を窺った。
起きがけに叫んだ名前を誰かに聞かれはしなかっただろうかと思ったのだ。
斎藤はのっそりと起き上がり、熱を持った身体をどうしようか、と苦笑した。
じっとりと汗をかいていた。
どうやらいつの間にか眠っていたらしく、外は闇が下りてこようとしていた。
斎藤は先刻見た夢を反芻する。
自己嫌悪と総司への申し訳なさが湧いてきて、斎藤は頭を抱えた。
何故あのような夢を見たのだろう。
夢はよく己の願望を現したものだという。ならば、先程のあの夢もそうだというのだろうか。
(馬鹿な…)
斎藤は人知れず苦笑した。
不意に、ぱたぱたと廊下に軽やかな足音が響いた。
斎藤は神経を研ぎ澄まし、気配を窺う。誰かはすぐにわかった。
斎藤が廊下に視線を移したのと同時に、開け放っていた障子から総司が顔を覗かせて笑った。
「あ!斎藤さん、おはよう。よく眠ってましたね」
「………」
「斎藤さん?どうしたんです、寝ぼけてるの?」
「……いや、」
なんでもないんだ、と言葉を濁し、斎藤は総司から視線を逸らした。
そんな斎藤の様子を見て、総司がくすくすと柔らかい笑い声を立てた。
斎藤はほっと息をついていた。
何故か気持ちが楽になっている。総司といるといつもそうなるのだ。
それと同時に先程の夢は、やはり己の願望なのかもしれないと思い始めている。
(そうか、俺は)
「斎藤さん?」
「…大事ない」
眉を寄せ、心配げに斎藤の顔を覗き込んできた総司に斎藤は珍しく口元を緩めて答えた。
総司が目尻を下げて、笑う。
その笑みに先刻の夢を思い出し、斎藤は狼狽した。
一さん、と柔らかい声色で囁いた総司の声が耳元で燻っている。
斎藤は総司の柔らかな頬を撫であげた。 その手が少し震える。
「総司、一だ」
「…はい?」
「俺の名だ。一と言う」
斎藤の言葉に総司は大きな瞳をきょとんとさせた。
しかし次の瞬間には膨れっ面になっている。
「失礼だなあ。知っていますよ、そんなことは」
「…そうか」
「そうですよ。それで、それがどうしたのだというのです?」
斎藤は答えに窮した。なんと言えばいいのだろう。
言葉に詰まった斎藤を総司はさほど気にした様子もなく、根気よく待ってくれる。
(名で、呼んでほしいのだ)
斎藤は詰めていた息を吐き出した。真っ直ぐな総司の瞳を覗き込み、柔らかい頬に触れた。
ありのままを伝える気になっている。しかし、口重い。
そんな斎藤が可笑しかったのか、総司の双眸がふと緩んだ。
柔らかい微笑を浮かべ、ことりと首を傾げた。
一拍間を置き、総司は口を開いた。
「一さん」
「……っ!」
「そう呼んでもいいですか?」
驚きに眼を見開き、声も出ない斎藤に総司は破顔した。
可愛らしい笑い声を立てながら総司は、面にしてやったりという色を浮かべている。
「駄目ですか?」
「…いや」
「私はね、もうずっと昔からそう呼びたかったのです」
そう言って総司は微笑した。
言いようのない想いが胸をつく。総司はよく斎藤の想いを極自然に察してくれることがあった。
そうして、意図も簡単に己の中に入ってきては、優しく暖かいものを残していく。
今回もそうだった。
斎藤は総司の華奢な肩を抱き寄せ、耳元に唇を寄せた。
陽だまりのような香りが鼻孔を満たし、溜息が出た。
「…構わぬ」
吐息のような応えは届いただろうか。
腕の中で総司の肩が震えた。
笑いを堪えている総司の背中をさすってやると、我慢できないという風に総司が吹き出した。
「あはは…!なんだか野生の狼を手なずけた気分だ」
「………」
斎藤は、やや憮然とした顔つきになっている。
どうやっても甘い雰囲気にならない関係に溜息が出る。
夢の様な展開になるのはまだまだ先か、もしくは生涯来ないかわからないが、今日のところは満足である。
(まあ、気長にいくさ)
斎藤は、不敵に笑んだ。
End