紅 葉
土方は時々、己が恐ろしくなるほど抑えきれない衝動に駆られる瞬間があった。
それは、色白の頬を桃色に染めて微笑するその表情であったり、泣きたいのを我慢して噛みしめた唇だったり、怒った目元だったり。
それを不意に目にしたとき、土方はこの上もなく狼狽してしまうのだった。
見慣れたはずのそれが土方の心をいとも簡単に攫い、乱す。
なんてことはない。もう、とっくの昔に限界だったのだ。
総司は、頬をぷくりと膨らませてしかめっ面をしてみせた。
その様に苦笑しつつも、土方は出かける準備を卒なくこなす。
「土方さんの嘘つき」
「仕方がねぇだろ。黒谷からの呼び出しだ」
「私の方が先だった」
「困った駄々っ子だな」
完全に子供扱いした土方の言い様に、総司は更に頬を膨らませた。
今日は、総司と清水まで紅葉を見に行く約束をしていた。誘ったのは、土方からだった。
その時の総司の喜びようを思い出し、土方は密かに眉を寄せた。
恐らく帰りは遅くなるだろう。しかし、お互い多忙な身だ。簡単に次の約束などできるはずもなかった。
「土方さんが誘ったくせに。もういいですよ。一さんに付き合ってもらうから」
「・・・斎藤に?」
ぎらりと歳三の視線に険しいものが宿ったが、総司は全く気がついていない。
つんとそっぽを向いて、さっさと室を出ようと立ち上がった総司の華奢な手首を掴んで引き寄せた。
驚きの色を浮かべた総司の瞳を見つめながら、歳三は柔らかく笑んだ。
総司が息を詰め、僅かに頬を赤らめた。その変化に土方は、涼しげな瞳を細める。
(馬鹿が。そんな貌をするんじゃねぇ)
「土方、さん?」
「・・・あんまり斎藤に迷惑をかけるんじゃねぇぞ」
「・・・っ!」
総司は土方の手を振り払って、潤んだ瞳で睨みつけてきた。
何か言いたげに口を開いたが、すぐに閉ざすと、総司は今度こそ室を出て行った。
土方は、その背中から目を逸らすように手で目元を覆った。
(俺は、今何を言おうとしていたのだ)
土方は、人知れず切なげな溜息を吐いた。
闇がゆったりと土方の身を包みこんでいた。
既に深夜である。酒席の後は泊まることが常であったが、土方はそれを断り屯所へ戻ってきたのだった。
帰らねばならぬ用などなかった。
しかし、どうにもあの青年が気がかりで居てもたってもいられなくなったのだ。
なんとか引き留めようとする女たちの手を振り払って、土方は出てきたのであった。
ひっそりと静まりかえった屯所の門を潜ったところで、土方は気がついた。
(・・・こんな時刻に総司が起きているわけがねぇ)
全身が脱力していく。そんなことにも思い当たらない自分が可笑しかった。
せめて寝顔だけでも見ていこうかと思ったが、やめた。
室には、斎藤もいる。行けば起こすことになるだろう。
(難儀なことだ)
本日、何度目かの溜息が無意識に出ていた。
月明かりが土方の行く道を照らしていてくれている。
それだけが、救いだった。
土方は、音もなく自室に入った。無人であった室は、身震いするほどにひんやりとしている。
それが一層、土方を憂鬱にさせた。
蝋燭に火を灯し、土方は羽織と袴を脱ぎすてた。胸元をだらしなく寛げ、行儀悪く胡坐をかく。
蝋燭の儚い灯りの中、土方は暫くじっと息を殺していた。
一向に睡魔が訪れず、仕方なく土方は机に向かった。
そこで初めて、机の上に置かれていたものに気がついた。
土方は、はっと息をつめ、眼を見開いた。
じわりじわりと心理に温かいものが込みあげてくる。
土方は、自然と緩んでくる口元を手で覆って、隠すようにした。
机の上に無造作に散りばめられた無数の紅葉たち。
土方は、今年初めての秋をそこに見た。
燃えるような赤は、土方の冷えきった心を温める。まるで、誰かのようであった。
そう思うと、もうどうしようもない程の愛おしさが胸を突いて、溢れてくる。
無邪気に土方と出かけることを喜んだときの眩しい笑顔と昼間の膨れっ面とが胸に迫る。
土方は、居ても立って居られなくなり、急いで室を出た。
真っ直ぐに総司の部屋へと向かう。
声をかけることもせず、いきなり障子を開けて、侵入した土方に障子側で眠っていた斎藤が飛び起きた。
右手は刀を掴んでいる。流石である。
しかし、土方はそれに一瞥を投げただけで、然程気にすることもなく、斎藤を跨いで総司の枕元に胡坐をかいた。
「おい!総司、起きねぇか!」
「・・・・うぅ、ひじかた、さん?あれ、もう朝なの?」
「馬鹿、寝ぼけてるんじゃねぇ!」
「・・・うん?」
土方はむづかる総司を昔よくしてやったように、膝の上に抱きあげた。
まだ寝ぼけているのか、甘えたように抱きついてくる総司の華奢な身体を力いっぱい抱きしめてやった。
その感覚に総司がぱっと目を開けた。
ぱちぱちと数回瞬きを繰り返すと、一気に頬を赤らめた。
その一連の光景を見ていた斎藤は、わざとらしい溜息を漏らす。
総司の頬は一層赤くなった。
「ひっ土方さん!何をしているんですかっ!」
「お前、貌が紅葉みたいだ」
「・・・っ」
腕の中でもがく総司を逃がさぬよう更に強い力で抱きしめる。
艶やかな黒髪に貌を埋めると、いつも通り甘い香りが鼻孔を満たした。
そんな土方の背後から控え目な声がした。
斎藤の存在を一向に無視し続ける土方に焦れたのか、その声はどこかやけっぱちな響きを伴っている。
「今から睦み合うってんなら、出ていきますがね?」
「なんだ、まだ居やがったのか」
すげない口調でそう言った土方に、斎藤は肩を竦めた。
総司は、状況が読めていないのか、ぼんやりと黙りこんでいる。
土方は、くつくつと笑うと、肩越しに視線だけを斎藤に投げた。涼しげな眼元が楽しげに細められる。
「しかし、追い出すのは気が引けるなあ。お前も交ざるか?」
「はぁ。そりゃ交ぜてくれるってんなら遠慮なく交ぜてもらいますがね」
しれっとそんな答えを返す斎藤に、土方は苦笑する。総司はすっかり大人しくなってしまっている。
でも、と斎藤が思案顔で続けた。真剣なのか冗談なのかがいまいち掴めないのが可笑しい。
「・・・初めてが三人ってのは、些か総司が気の毒じゃあないですかね?」
「なるほど、違いねぇ」
土方が楽しげに笑う。
漸く、会話の流れが読めたのか、総司の貌が赤くなったり青くなったりしている。
斎藤はそれに苦笑する。黙って刀を手にすると、室を出ようとした。
「どこへ行く?」
「厠ですよ」
「刀を持ってか?」
「ここは、物騒ですからな。何分早くお願いしますよ」
斎藤は、軽く肩を竦めて室を後にした。ぱたりと障子が閉められた後には、静寂が訪れる。
土方は、総司の背中をそっと撫でた。
土方の腕の中で露骨に嫌な貌をする総司を仕方なく解放してやると、一抹の寂しさが身を包んだ。
総司の身体は暖かいのだ。
総司がまだ赤味の残った頬をぷくりと膨らませて、睨んでくる。
「こんな時刻に一体なんの嫌がらせなんです?」
「人聞きの悪いことを言うんじゃねぇよ」
土方は、微笑する。その瞳に慈愛が溢れている。
この男がこのような眼をするときは、本当に機嫌の良いときなのだと総司は知っている。
総司は、首を傾げた。
(私、何かしたかなあ)
土方の機嫌を良くするようなことをした記憶がない。それどころか朝、口論になって別れてから会っていないのだ。
総司は、珍しく機嫌が良いのを隠そうともしていない土方の端正な貌をじっと見つめた。
そんな総司の心裡も知らず、土方は懐紙に包んだ紅葉を優しい手つきで懐から取り出した。
総司の愛嬌のある黒目がくるりと瞬き、口元を綻ばせた。
そっと貌を伏せたのは、どうにも照れくさかったからだ。
(あぁ、そうだ。忘れていた)
総司は、くすりと笑みを零した。
(これがそんなに嬉しかったのかな。可愛い人だなあ)
見事だな と素直な口調で言った土方に、総司は驚いて貌を上げた。
土方は、存外美しいものが好きだ。句を練るだけあって風流なところがある。
思えば、江戸いたころは、土方のほうが季節の変わり目や旬のものに敏感であったように思う。
何も知らない幼い総司の手を引いては、根気よく色々なことを教えてくれたのだ。
春先の桜の蕾、雨の匂い、夏を孕んだ風、秋の紅葉と熟れた柿の実、冬の初雪、そんなことを見つけてきては、幼い総司を喜ばせた。
(この人は、新しいものを見つける天才だった)
総司は、そっと瞳を伏せた。
この人が、そういうものに一切の関心を示さなくなったのは、いつからだったろうと考えて切なくなった。
いや、関心がなくなったというのとは、少し、違う。
そんなことに心動かすときが無くなっただけなのだろう。
(だから、私が・・・)
総司は、そっと微笑した。総司の心裡に温かいものが溢れてくる。
この人が、季節の変わり目にも気づかぬくらい多忙だというのなら。
(私が、この人の季節に彩りを添えてあげよう)
「すごく、見事でしたよ」
「・・・そうか」
「貴方にも、見せたかったなあ」
「これで十分だよ、ありがとう」
土方が総司から視線を外して、ぶっきらぼうな調子で言った。照れている。
総司は、くすりと可愛らしい笑い声を立てた。
こうも素直な土方は、本当に珍しいので可笑しくなってきたのである。
「そう言えば、随分と早いお帰りですね。てっきり明日の朝お帰りなのかと思っていました。あ、もしかして振られてしまったの?」
「馬鹿、坊やの機嫌取りをしに帰ってきたのさ」
総司の茶目っ気たっぷりの言い方に、土方は苦笑した。
どうにも、この坊やには敵わない。
紅葉よりも艶やかに総司が笑う。
愛らしい黒目がきらきらと輝く様を見つめながら土方は、今宵も湧き上がる衝動を必死で押さえることになるのだった。
(・・・本当に、難儀なことだ)
END