納 涼

微風も吹かない日であった。   夏の陽射しは、唸りを上げ、容赦なく照り付けてくる。   夏の道場稽古は地獄である。 その地獄を今しがた終えた斎藤は、しかし涼しげな表情で自室へと向かっていた。   斎藤も人間である、暑いことは暑い。 しかし、それを表情に滲ませる可愛げがこの男にはないのである。   足早に自室に向かう途中の廊下で斎藤は奇妙なものを見つけ、珍しくその顔に驚きを浮かべた。 人にはわからないぐらいの微々たる変化ではあったのだが。 (あの男は何をやっているのだ)   そんなことが始めに頭を過ぎった。   その男は廊下のど真ん中で大の字に寝転がっていた。 いつも笑みをたたえている真っ黒な瞳は閉じられている。   眠っているのだろうか。関わりたくない気もしたが、そこを通らなければ自室へは行けないのだから仕方がない。   斎藤は同い年とは思えないほど幼さを残した顔を覗きこんだ。 「……、おい、総司?」 「…あ、斎藤さん!お帰りなさい、暑かったでしょう」   斎藤の声に目を開け、総司は微笑した。   お疲れ様です、と口では殊勝なことを言う総司であったが、起き上がる気はないようだ。 総司はにこにこと邪気のない笑みを浮かべ、斎藤の顔を仰ぎ見た。 「総司、何をしている」 「何って、決まっているじゃありませか。涼んでいるんです」   さすがの斎藤も呆れ顔になってしまう。  沖田という男はこんな子供みたいなことをさらりと言うのだ。 「屯所のあちこちで試してみましたが、ここが一等涼しいんです」 「……あちこち?…まさか屯所中寝転んで回ったのか?」 「もちろんですとも!そうしなきゃわからないでしょう?」   むくりと起き上がり、斎藤を見上げてくる総司の無邪気な顔をみて、斎藤は珍しく口元を緩めた。   この男は貴重な非番の日をそんなことに費やしたのか、と可笑しくなったのだ。   否、総司らしいと思った。   斎藤は、無言で総司の傍らに座り、刀の手入れを始めた。 そんな斎藤に総司は首を傾げ、困惑気味に声をかけた。 「あの、斎藤さん?」 「ここが一等涼しいんだろう?」 「…信じますか?」 「総司がそう言うんだ。そうなんだろう」   斎藤の言葉に総司は目を見張ったが、次の瞬間には弾けるような笑みを浮かべていた。 その眩しい笑みに斎藤は目を細め、胸が熱くなるのを感じた。   無言で刀の手入れをする斎藤の手元を飽きもせず、総司は見入っている。   会話などなくてもよかった。総司といるといつもそうであった。      不意にふわり、と爽やかな風が二人の間をすり抜けていく。   今日は風のない日だと思っていただけに斎藤は嬉しくなった。 (やはり、総司には敵わん)   膝を抱えるようにして座っている総司の横顔を見つめた。 先程から当たるか当たらないかの距離にある肩先がくすぐったい。   冗談事とみせかけて、その肩を抱き寄せてみようか。   斎藤は内心で苦笑した。 そんなことを思案している自分がどうにも可笑しかった。 「本当に総司といると調子が狂う」 「はい?」   なんでもない、と目元を和らげた斎藤に総司は首を傾げ、訝しむような視線を斎藤に向けてきた。 「どうも今日の斎藤さんは変だなぁ」 「そうか?」 「そうです」   斎藤の顔を覗き込むようにしていた総司の髪が風で揺れた。 乱れた後ろ髪を撫でるように直してやると、はにかむ様な笑みを向けられる。   その無防備な様が胸にしみた。 「総司、将棋でもささないか?」 「おや、珍しい。斎藤さんが誘って下さるなんて。やっぱり今日は変だなぁ」   そんな総司の軽口にも斎藤は笑うだけだ。 総司は首を傾げてから、くすくすと無邪気な笑い声を上げた。 「私、持ってきます。今日は私が勝ちますからね!」 「さて、それはどうかな」   総司は勝ち気な笑みを一つ浮かべると、ぱっと立ち上がり、ぱたぱたと廊下を走っていった。   その華奢な背中を見つめ、今暫くは二人きりで静かに将棋をさせるだろうか、と考える。   何しろ総司の傍には自然と人が集まる。  今日もその内、幹部から平隊士関わらず集まってくるだろう。   その騒ぎに鬼と言われる副長も姿を見せるかもしれない。   斎藤は人知れず笑った。   うるせぇ、と怒鳴る副長が総司の軽口にやり繰るめられ、渋い顔で結局容認してしまう様を思い描いて可笑しくなったのだ。   斎藤は刀を鞘に戻し、夏の空を見上げた。 (やはり、総司には誰も敵わん)   ぱたぱたと翔けてくる総司の軽い足音に耳を澄ませ、そんなことを考えている。 END